【組織人事】人を伸ばす力 内発と自律のすすめ②

オットセイの曲芸を例にみると飼育係たちは報酬を使って望ましい行動を引き出すのがとてもうまい。腹ペコになったオットセイは報酬の魚をもらうためなら何でもする。前ビレで拍手をしてみたり、観衆に手を振るまねをしたり…。このような曲芸ショーは、報酬を与えることが抜群の動機づけテクニックであることを証明しているようにもみえるが、果たして本当にそうだろうか。このケースでは飼育係がいなくなったとたん、見せ物の芸も消えてしまうだろう。報酬は行動の出現率を高めるかもしれないが、それは報酬が提供され続ける範囲内の話なのである。
社会の担い手は、もう一方の人たちに対して、たとえ報酬を与えなくても期待される行動を続けて欲しいと望んでいる。人がもっと責任を持って行動し、自分自身の意思によって行動を持続させるにはどうしたら良いのだろうか。

行動心理学の原理では、「ある特定の、それとはっきりわかる行動に対して報酬を与えること、しかもできるだけその行動が起こった直後に与えること、罰よりも報酬に注目すること、報酬を提供する際には一貫性を重視すること」と考えられており、これは適切な報酬の随伴性(行動に応じた報酬)を提供せよということである。「人は基本的に受動的な存在であり、報酬を獲得するか罰を回避する機会を提供する環境からの誘いがあるときにだけ、人は反応を起こす」という行動主義哲学者バリー・シュバルツの提供するメッセージに通ずる。

しかし、ハリー・ハーロウのリーザスサルの研究では、報酬を与えなくても、サルたちはまるでパズルを解くこと自体が「報酬」であるかのように、何時間もパズルを解き続けたという。そして、このような現象は「内発的動機づけ」と名付けられたのだが、活動することそれ自体がその活動の目的であり、活動それ自体に内在する報酬のために行う行為の過程があるということである。

ロバート・ヘンリは、絵を描くことの目的は、絵を完成することにあるのではなく、絵は描くことの結果として生じる副産物で、真の芸術活動の目標は存在の本質的状態に到達することにあるという。内発的動機づけとは、活動それ自体に完全に没頭している心理状態であって、何かの目的に到達することとは無関係なのである。幼児が何かを達成する手段としてではなく、単に好奇心から、知りたいという理由で学ぶのは、ヘンリのいう「普通に存在している以上の状態」の原型だと言えるだろう。

だとすると、どのような経験が人の内発的動機づけに影響を及ぼし、時にそれを低下させてしまうのだろうか。元々報酬無しで自発的に取り組んでいる活動に対して外的な報酬が提供されたとき、その活動に対する内発的動機づけはどうなるのだろうか。

ソマ・パズルの実験では、パズルを解くことに対して金銭的報酬を支払われた学生は、パズルを解くことは報酬を得るための手段にすぎないと考えるようになってしまったという。また、学校が利用する子供たちを動機づけるためのあらゆる報酬や規則や管理も、逆に子どもたちを無気力な状態に貶めてしまうのではないだろうか。

報酬によって人は多くの活動に対して興味を失ってしまう。その活動を金銭という報酬を得るための単なる手段としてしか見られなくなり、その活動に対してかつて抱いていた興奮や熱意を失ってしまうのである。活動に対する歪んだ手段的関係は「疎外」と呼ばれる心的状態で、金銭という報酬により支配され自分の内部との接触を絶ってしまっている。「疎外」は、人の内発的動機づけとの関係を絶つ。すべての子どもがもっている興奮や活力との関係を絶つ。ロバート・ヘンリがいう存在の本質的状態との関係を絶つのである。

なぜ、内発的動機づけが外的な報酬によって低められてしまうのだろうか。人格心理学者ヘンリー・マレーは、人の身体に生理的欲求があるのと同じように、心にも心理的欲求があると述べた。それは、もしその要求が満たされないなら、健康を害し様々な不適応が生じることを意味する。自律性の感覚が低まると内発的動機づけが低まり、他のマイナスの結果が生じやすくなるということである。また、報酬の他にも、脅し、締め切りの設定、目標の押しつけ、監視、評価なども内発的動機づけを低下させることがわかっている。統制や圧力により、人々は自律性とは正反対の感覚を経験し、熱意や興味を失っていくのである。

それでは、どうしたら人の自律性を支え、内発的動機づけを弱めないようにできるのだろうか。

ある医者のもとで、ずっと処方箋に従わず薬を飲まないためにしばしば緊急治療室に入院を繰り返していた老婆がいた。その後、新しい医者に変えたところ、なんと忠実に薬を飲んでかなり調子が良くなったという。新しい医者は薬について長時間かけて彼女と話し合い、彼女自身に薬を飲む時間や、飲む方法を選択する機会を与えた。これにより薬を服用する行為を彼女の習慣に組み込むことができ、また、自分の権限を感じて、責任感が芽生えたのである。選択する機会の提供が彼女の自律性を支え、内発的な動機づけを高めたのである。人は、自ら選択することによって自分自身の行為の根拠を意味づけ、納得して活動に取り組むことができ、それにより「疎外」の感覚が減少するのである。
もちろん、選択するという感覚を持つためには、その可能性や制約、十分な情報や知識を持ち合わせている必要がある。そのような情報なしに選択の機会が与えられても、自律性の感覚どころか負担を感じるだけである。

リチャード・ライアンは、報酬の効果は、人がそれをどのように解釈するか、報酬の心理的意味づけに依存して決まるのではないかと考えた。
実際、報酬を与える人が他者を統制しようとして報酬を用いる場合、報酬の受け手にとっては報酬が自分を統制するものとして映り、内発的動機づけにマイナスの影響を及ぼした。逆に、報酬が何かをうまく成し遂げたことに対する証しとして与えられた場合にはマイナスの影響は見られなかった。これは、報酬を与える側に相手を統制しようとする意図がなければ、報酬が有害な効果をもたらす可能性は低まるということを示唆するが、しかし、人は報酬を統制するためのものだと見がちなため、よほど注意深く報酬を与えなければ内発的動機づけは損なわれてしまう。

目標や構造を定め、制限を設定するなどのことは、たとえ好まれないとわかっていても、学校や組織、さらに文化においてしばしば重要である。しかしその際にも他者の自律性を支えるという意識で、他者の視点で考え、他者の立場に立って行動することが大切である。それが他者の自発性やチャレンジしようという気持ち、あるいは責任を持とうとする姿勢にもつながる。しかし、自律性を支えることは強制することよりも難しく、より多くの努力や技能が要求される。

コスナーとライアンの制限と自律性の共存の可能性の実験では、子供の描画の場面を作り出し、周りを汚さず道具を散らかさないで絵を描くために、①プレッシャーを与える言葉をかけて統制による制限、②子どもの立場を尊重し自律性を支える言葉による制限、という2つの制限の方法を試した。その結果、大人が自分を理解してくれると感じた子どもは、制限が統制的であった子供よりももっと内発的に動機づけられ、より熱心な様子を見せたという。つまり、制限される側の立場に立ち相手が主体的な存在であることを認めることによって、偽りのない自分であることを損なわずに責任感を育てることができるとされた。

内発的動機づけには人生と大いに関係する精神的な現象を引き起こす。ロバート・ヘンリの言う「普通に存在している以上の状態」や、チクセントミハイが言う「フロー」状態で、時間の感覚が消え去り、集中力が持続し、ワクワクするような気持ちで満たされ、その時間がいつまでも終わらないでほしいと願うような心理的状態である。内発的動機づけは、豊かな経験、概念の理解度の深さ、レベルの高い創造性、より良い問題解決を導く。

報酬や他の統制など外的報酬を用いることにより動機づけを促す場合もあるが、その場合には、①いったん報酬を使うと人は報酬を得ることを目的に行動するようになること、②人がいったん報酬に関心を向けると、報酬を獲得するための手取り場合最短のやり方を選ぶ可能性があること(出来高制で給料を支払うと生産量は増すが質は低下する可能性がある)に十分に留意する必要がある。
それらは人々の注意を仕事そのものから遠ざけ、成果である報酬に注目させる。その結果として、創造性の欠けたあまり有効ではない問題解決、安易な道の選択にとどまってしまうことは明らかである。

また、報酬を提供する場合には、報酬がその貢献に見合ったものであり、周囲の人が得ているものと比べバランスが取れているということも重要である。いずれにしても報酬により動機づけするという側面を避け、仕事の条件の単なる一側面として、単純に仕事というものに内在する事実として扱うべきである。

エドワード・L. デシ (著), リチャード フラスト (著), 桜井 茂男 (翻訳) 人を伸ばす力 内発と自律のすすめ 1996 第2章 金だけが目的さ、第3章 自律を求めて